欧州スクーター旅行(神戸大学ヨーロッパ学術親善旅行隊)
 1958年(昭和33年)9月、阪急百貨店地下食料品売場でのバイト、後立山連峰縦走、ラグビー部の合宿などで忙しかった夏休みが終わり、学校へ出たところ主任教授から「土木工学科の先輩たちがヨーロッパをスクーターで一周し見聞を広めてみようと言う計画を立てており、現役の学生から希望者を募集しているがどうだ」とのお話があった。
 即刻数名が手を上げたのであるが、今日のように外貨交換が自由ではなく、パスポートやビザの取得も簡単には出来なかった時代でもあり、結局は私ともう1名が残り、先輩3名と合わせて5名で夢のまた夢のような話に挑戦することになった。「そんなことは不可能である」とか「正気の沙汰ではない、馬鹿ではないか」等と言われながらも半年掛りで準備を進めたところ、翌年の5月頃に漸く車と資金の目途がついたのである。
 そこから先が大変であった。「外務省海外渡航審議会」で審査を受けるのだが、学生などが貴重な外貨を使って長期にわたりヨーロッパへ行くことの意義が問われ何度も審議保留を重ねた挙句に、「小型自動車協会」の嘱託になって日本のスクーターの宣伝をし、又、高速道路(当時日本にはまだ無かった)で連続高速運転をしてその性能をチェックすると言う大義名分が功を奏してついにOKが出たのであった。
 いうまでも無く、先生方をはじめ、新三菱重工の関係各位や、快く寄付に応じてくださった先輩諸兄や企業関係者各位のご理解とご協力のお陰ではあったが、自分自身では高校ラグビー部での経験に続きまたしても味わった<ネバーギブアップ>精神の成功がすっかり身についてしまったことが最大の収穫であった。
1958年7月19日、神戸港第4突堤出航時には沢山の方々の盛大なお見送りを受けた。
ゼノアからミラノへの高速道路。初体験である。
フランクフルトにてトラブル発生。旅行後半にはスクーターの小トラブルが頻発したが出発前に三菱の整備工場で習熟していたので全て自力で解決した。
ドイツとオーストリアの国境であるが、ヨーロッパ連合のお陰でここに限らず殆どの
ところでフリーパスであった。
アペニン山中にて。峠を越えると一転して地中海型の晴天であった。
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